心臓病シミュレータ『イチロー君』開発の経緯

 

【日本における臨床心臓病学教育の重要性を痛感】

 1962年に帰国してから7年間、大阪にある淀川キリスト教病院で循環器科を担当しましたが、その間に数多くの若い先生方にアメリカでの留学中に学んだ心臓病学の様々な経験や、毎日の勤務が終わってからも心電図の講義をしたりしました。当時、同病院に勤務していた医師の大半はアメリカでの臨床訓練を受けた経験があり、彼等の臨床技術のレベルは非常に高く、病院での総回診は全て英語で行われていました。これが大変評判となり、各大学病院からもアメリカ留学を志す若手の医師たちが、毎週の総回診に参加していました。 私は1968年から1985年まで神戸大学医学部で医学英語の講座を担当しましたが、講義は専門である臨床心臓病学を中心に英語で行いました。当時の学生たちにとっては、私から実際にチュレーン大学で医学部の学生たちの臨床教育に携わってきた経験に基づいたベッドサイドにおける心臓病患者の診かたや、治療のノウハウを聞く事ができたことは何よりも新鮮で、パンチの効いたレクチャーだった様です。 1969年に循環器専門外来と地区の医師会の方々に「ベッドサイドにおける心臓病患者の診かた」「心電図の読みかた」「胸部レントゲン写真のみかた」などの当時必要と考えられたテーマを取り上げ、シリーズで約15年間の連続講義を行って来ました。また、全国各地の医師会および看護婦や医療関係者の方々に対して今日まで数え切れない程の講演会や研修会を行ってきました。その経験を通して感じたことは、わが国では心臓病患者の身体所見から臨床診断に至る一連の臨床手技(clinical skills)の訓練が大学では十分に行われていないという事でした。

1970年にアメリカでは心臓病患者の身体所見の診かたを自己研修によって学ぶことができる臨床教育機器として、マイアミ大学医学部教授のゴルドン先生(Michael S. Gordon)などアメリカ各大学から十数名の心臓病専門医が中心となって、ベッドサイド教育研修のため心臓病患者シミュレータ『ハーヴェイ君』(Harvey)を開発していました。このアメリカ心臓病学会の研修センター(Heart House)の柿落しのセミナーに私が出席しジョージタウン大学医学部のハーヴェイ教授(Prof. Proctor Harvey)の素晴らしい臨床講義を聴き、実際に『ハーヴェイ君』を目の当たりにしたことが「将来、日本にも是非このような教育研修センターを作りたい」という夢を私に抱かせました。(『ハーヴェイ君』とはゴルドン先生が恩師のハーヴェイ教授のお名前から付けたニックネームです)

その結果、1985 年にアメリカでフェロー(fellow)やレジデント(resident) として臨床訓練を受けてきた心臓病専門医が集まり、医師、看護婦をはじめ医学生や医療関係者のため、心臓病を中心とした生活習慣病の診断や治療に関する最新の知識を普及する教育活動と、また一般の方々に対して日常生活における注意点や、これらの疾患に対する予防啓蒙活動を行うことを目的として、公益社団法人臨床心臓病学教育研究会を設立しました。そして臨床手技の習得に自学自習ののできる教育機器として,1989年に当公益社団法人はマイアミ大学から心臓病患者シミレータ『ハーヴェイ君』を導入しました。当時の研修目的には十分叶ったものであったと思っています。

『ハーヴェイ君』は確かに27種類の各心疾患の身体所見を忠実に再現してくれるシミュレータでしたが、頸静脈波、全身の動脈波や心尖拍動など全ての動きはカム装置によって作動されており、また心音や心雑音もシミュレーションによって合成されたものでした。これら心音・心雑音を聴くためにはに『ハーヴェイ君』に具備した特殊な聴診器を使わなければならず、しかも総重量が350Kgと非常に重いため、研修に際して人為的、経済的な負担が大きく容易に動かすことが出来ないという問題が絶えず頭を悩ませました。

 

【新しい心臓病患者シミュレータ『イチロー君』の開発】

 これらの問題をどう解決すればよいのかを考えていましたが、まず実際の患者から記録された心音・心雑音を使つて聴診の訓練を行う事が最も大切であると考えました。約5年間の試行錯誤の末に、私は1990年に直接各種の心疾患患者から心音記録装置を通して4チャンネル・マルチカセット・レコーダーに心音・心雑音を記録し、再びこのレコーダーを通して人体の胸部サイズのマネキンに再現できる心臓病聴診シミュレータを開発し、これを循環器専門誌の"Clinical Cardiology"に発表しました。

さらに心音・心雑音の聴診だけでに留まらず『ハーヴェイ君』の様に心疾患患者の身体所見を全て再現することができ、また研修に際して移動が容易にできるシミュレータを開発しようと考えました。その結果、数年後に私の友人である東京工業大学制御工学科の清水優史教授と京都科学社長の片山英伸氏との共同研究により、最近のデジタルおよびコンピュータ技術を応用して人体と等身大のマネキンに身体所見を再現できる軽量化された、新しい心臓病患者シミュレータ『イチロー君』の開発に成功したのです。(なお、蛇足ですが『イチロー君』と命名したのは、今やすっかり有名になってしまったプロ野球球団オリックスの「イチロー選手」が有名になる以前に、私が最初に開発した心臓病シミュレータだという簡単な理由で『イチロー君』とした次第です)

 

【シミュレーション技術を使った『イチロー君』の機能について】

 シミュレータ技術はアメリカで開発されたものですが、その代表的なものとしてはジェット機のコックピット(操縦室)のシミュレータによってパイロットが実際の飛行機で世界各国の空港への離発着の訓練したり、またNASA(米国航空宇宙局)の開発したシミュレーション技術によって約30年前に月面に人類を送ることができたのです。各種の商業用ロボットの開発では日本は世界一の実績をもっているのですが、残念ながら医学の訓練には今までシミュレーション技術が使われて来なかったのです。この臨床訓練に最も必要であるシミュレータを何とか国産で作り上げようと考えた結果、私達の苦心の末『イチロー君』が誕生したのです。 まず『イチロー君』の機能について説明しましょう。このシミュレータは日常診療において見られる各心疾患患者さんから頸静脈波、頸動脈波、全身動脈波を心尖拍動を心機図記録装置 (MINGOGRAMA, SIEMENS社)によって記録し、心音・心雑音は直接、心音記録用マイク(FUKUDA PL-33)によって4 チャンネル・マルチカセット・レコーダ(YAMAHA CMX-100 II)に記録し、これらのデータをコンピュータに入力しました。各心疾患患者からコンピュータに入力されたデータの頸静脈波、全身の動脈波、心尖拍動 及び腹式呼吸(心拍数を60回/分、呼吸数を12回/分に設定)を再現するために,32-ビットマイクロコンピュータを使用した空気圧制御技術により人体と等身大のマネキン(内部:発泡ウレタン、表皮:塩化ビニール製、京都科学社)の両側の頸静脈、頸動脈、正中動脈、橈骨動脈、大腿動脈および心尖拍動部位に設置された空気圧シリンダの変圧により忠実に再現しました。

操作は非常に簡単でコンピュータのキーボードにある"F"(機能キー)とカーソルを動かすだけで初心者でも容易にできるものです。またコンピュータの画面には、心機図として頸動脈波、頸静脈波、心尖拍動および心電図を表示されています。現在、健常者の身体所見から始まり、各心疾患における身体所見の変化やそれに伴う心雑音、心尖拍動の変化など約100種類が「キー」を押すことによって瞬間的に変わり、画面上に見られる頸静脈波、頚動脈波、心尖拍動の変化を目で確かめられると同時に、各聴診部位における心音・心雑音の変化を聴くことが出来るのです。ですから皆さんは実際の心疾患患者を診察するのと同じように『イチロー君』を自分のペースでゆっくり診察できます。また各症例毎に解説文も入力されていますので、自学自習には最適の臨床研修機器であると思われます。

 

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